キリスト教とサヨク

久々に書こうかと思ったのは、昨日あたりからのニュースを見たからだ。
例えばこれ、「民主議員、日本の竹島領有権主張中止宣言に署名
土肥隆一氏は、日本基督教団の牧師を務めつつ、衆議院議員も務める人物で、キリスト教徒の政治家としては最も有名な一人、かつキリスト教徒であることを前面に出して活動する人物である。その彼が、「日韓キリスト教議員連盟」という組織で、竹島について主権を放棄するべきであるという文書に署名したと言うことで、あちこちで騒ぎになっている。
政治家としての脇の甘さだと言えばそれまでであるけれど、2ちゃんねるまとめサイトで、「キリスト教ってサヨクだから」みたいな書き込みがあるのを見て陰鬱になった。

先日も、キリスト教会主催の社会問題に関する集会に出席したのだけれど、自分は、どうして日本のキリスト教徒が「サヨク」なのか、よくわからない。
「左翼」と言う言葉の辞書的定義は、wikipediaをコピペするなら『より平等な社会を目指すための社会変革を支持する層』だそうだ。キリスト教は確かに「神の前の平等」をその人間理解とする。しかし同時に、(少なくとも私の教派は)「万人救済」を否定するので、救済においては絶対的な差異の存在を認めるものだ。つまり、本来キリスト教は左翼にも右翼にもなり得る。現に、アメリカで力を振るったネオコンやその支持基盤である福音派の教会は、ガチガチの右翼であるし、韓国だってキリスト教は右翼だ。
「左翼−右翼」と類義とされる表現に「革新−保守」がある。これにしても、キリスト教は、全ての人間とその構成する社会が罪の中にあり、救済を必要とすると理解するので、現在の全ての人間社会は「革新」されるべきであると理解する。と同時に、現在存在している社会は全て神が作りたもうたものであると理解するから、全ての人間社会を許容、支持することが可能となる。つまり、キリスト教を基盤として革新にも保守にも触れることが可能である。
その他、「左翼・革新」と類義語とされがちな言葉としては「社会・共産主義」「反米・親中」「自虐史観売国」等がある。けれどもこれらの言葉自体が、「左翼・革新」とは同義ではなく、もちろんキリスト教のものの考え方と一致する必要は全くない。
ではなぜ、「キリスト教=左翼・革新=社会・共産主義=反米・親中=自虐史観売国」と理解されるのか。
 最も重要なことは二点、その第一は、第二次世界大戦において、日本の精神的支柱として「国家神道天皇制」があり、その天皇制が戦後も(形を変えてはいるものの)維持され続けたこと、第二点は、第二次大戦までの時点で、キリスト教が日本に浸透できなかったことにあるのだろう。
概ねどこの国であっても、その国に(宗教に限らず)新しい思想が入り込む場合、それはまず第一にその社会に満たされていなかったり、不利益を受けていたりする人に受け入れられる所から始まる。日本の場合もそうであって、明治期の最初のキリスト教とは元士族だったし、宣教者たちは福祉や教育、廃娼運動等の社会活動に積極的に取り組んだ。いずれの国においても、後者の「不利益を受けている人々」に対する浸透は、キリスト教の裾野を広げ、人々の警戒心を弱める役割を果たした。一方「満たされていない人」特に若い世代への浸透は、やがてその人々が社会的な役割を担う世代となった時に、キリスト教社会権力へと結びつける役割を果たす。例えば、韓国においてキリスト教が非常に広く受け入れられる土壌となった一つの理由は、第二次大戦下の抗日・独立運動に、少なからぬキリスト教徒が参加していたことにある。彼らは当然、独立後の韓国において一定の地位を占めたし、その事は意図するしないに関わらず、キリスト教の拡大に有利に働いた筈である。
しかし、日本の場合はそうはいかなかった。プロテスタントキリスト教が日本に入って来た明治維新において、既にそこには「天皇制」が精神的支柱として存在していた。「天皇制」というイデオロギーを受け入れること無しに、日本で一定以上の「社会的役割」を担うことは困難であった。当時のキリスト教とはその点に苦慮し、なんとか乗り越えようとしたが、結果は果たせなかったと言わざるを得ない。
「その社会を担う人々の新しいイデオロギー」としての役割を担えず、「不利益を被る人々の社会的な受け皿」としての役割を果たした結果、キリスト教は、日本の社会に対する批判勢力としての性格が強まって行く。つまり、「サヨク」となっていく。幕末期から第二次大戦まで、それ以降と日本の政治体制、思想も変化して来たが、大枠で「天皇制」が維持され続けていることが、キリスト教がその置かれている立場を覆すためには不利に働いたことは間違いないだろう。今日においてもキリスト教は「日本人の意識の大勢」とは相容れない、むしろ良い意味でも悪い意味でも批判的な機能としてしか働き得ない。本来であれば、「国家主義キリスト教」「親米・反中キリスト教(これ等むしろよりキリスト教らしい姿だろう)」「保守的キリスト教」等も存在する筈が、「反体制的キリスト教」しか存在しないのは、そんな理由だろうと想像する。

なぜ、キリスト教が日本人のイデオロギーとして浸透しきれなかったのか、単に天皇制の存在だけが問題だったのか、キリスト教そのもののあり方、浸透の手法に何か別の問題があったのではないか。天皇制そのものが大きく変革した第二次大戦後にも浸透しきれなかったのはなぜか。その時の変革は相変わらずキリスト教徒相容れないものであったのか。そして、今後キリスト教が日本に進展して行くためにとるべき手法は何であるのか。少なくとも私には現在の「(悪い意味での)批判的機能」としてのキリスト教では、日本社会に浸透して行くことは極めて困難であると思うのだが、そこで、キリスト教の側でどんな変化が可能であるか。それともむしろ変化しないことが採るべき道であるのか。 その辺りは悩み深い所だろう。今後のことについて、個人的な見解を言えば、少なくとも今の社会体制が続く限り、キリスト教の側が大胆に変化しない限り日本人に受け入れられることはないだろう。それは、例えば、行政の神道行事への参加を許容するとか、仏教的葬儀儀礼の形式を取り込むとかそう言ったことだ。
しかし私自身、それには極めて強い宗教的な良心の痛みを感じる。従って、もう一つの道、つまり、現在のキリスト教の批判勢力としての役割を負い続けることが必然的に採りうる道と言うことになる。批判勢力としてのイデオロギーが、体制になるためには、現体制が覆されなくてはならず、それには少なからぬ争乱、場合によっては人が傷ついたり、命を落としたりすることが伴わざるを得ないことが悩ましい。


以下、記事全文引用

民主議員、日本の竹島領有権主張中止宣言に署名

 民主党土肥隆一衆院政治倫理審査会長(兵庫3区)が、韓国の国会議員と共同で「日本が竹島の領有権主張を直ちに中止する」との内容の共同宣言文に署名していたことが9日、分かった。

 土肥氏によると、2月27日に「日韓キリスト教議員連盟」の日本側代表として訪韓した際、未来志向の日韓関係構築や、竹島に関する文言が盛り込まれた共同宣言文案を韓国側議員から渡され、署名した。土肥氏は「竹島は日本の領土との認識に変わりはないが、日韓双方の主張があり、韓国側の主張にも納得できる部分もある」と述べている。

 土肥氏は党内で菅グループに所属し、菅首相に近い。

 首相は9日夜、首相官邸で記者団に「大変遺憾に思う。竹島は日本の固有の領土であり、その立場は全く変わらない」と語った。

 自民党大島理森副総裁は「日本の主権を否定する行為で、国会議員としてあるまじき、恥ずべき行為だ」と批判した。

(2011年3月10日10時01分 読売新聞)