焼香

実は、昨日は、知り合いのオバチャン家の葬式だったんですよ。そのオバチャンのお母さん、齢九十才を越えた大ばあさんが亡くなったのです。私とオバチャンはクリスチャンで、要は教会つながりなんだけれど、そのオバチャンの家はオバチャンの家族以外の親族皆仏教徒で、当然葬式も仏式で行われてました。私はちょうど時間が空いたのと、まあ教会の中でもそのオバチャンには特にお世話になってたりしたので、葬式に出たわけです。後述の理由で、私と数人教会の人ができるだけ隅っこで固まって座っていたのです。ところが、式直前に式場の人が「もう少し前からお詰め下さい」とか言うので、何だか親族席のすぐ後ろに座らされてしまいました。
一通り読経が済むと当然焼香ということになります。私ら教会関係者は、案内の会館の人に「パス!」って伝えるわけです(だから後ろに座ってたのに……)。親族であるオバチャンは、名前を呼ばれますので、パスってわけにはいきません(時々名前を飛ばしてもらう剛の者もいるけれど)。オバチャンは他の親族に続いて焼香台の前に立って、ただ前に立ってから席に戻っていました。
恐らく、キリスト教徒が仏式の葬儀に出席する時に一番困るのが、この焼香であり、特に親族の葬儀の場合、彼女の取った行動(名前を呼ばれたら焼香台の前に立つけれど、焼香はしない)が一番無難な行動なんだろうと思う。最近は葬儀社の人でも参列者の人でも随分わかって下さるようになったけれど、それでも、わざわざ葬式に来て焼香をしない彼女と我々の姿は周囲にはどう写るのだろう?


実は先日、私も参加してる某メーリンググループで、メンバーの一人である牧師が、
『仏式や神式の葬儀の喪主を引き受けざるをえなくなった(家族会議で押し切られた)キリスト者。個人としてではなく、会社や団体の代表者として葬儀に出席している人が、会社や団体を代表して(自分自身の信仰を犠牲にして)焼香を行うこと。このような人々を「偶像礼拝者」と呼ぶのは少し厳しすぎるだろうと、考えています。』
『「焼香」の問題で洗礼を受けることを躊躇しておられるとしたら、私でしたら、「焼香を続けてくださって構いませんから、洗礼を受けてください」と申します。』
と発言し、メンバー内で物議をかもした。
(発言丸写しなのでバレたらヤバいなぁ。ニヤニヤ)
その話は発言者である牧師が前言を撤回したことで収まった(収まってないのかもしれない)。私はそのメーリングリストでは軒先を借りてる程度なので、何も発言しなかった。けれど、ここにこそ日本のキリスト教会のジレンマがあるのだと思う。


確かに焼香は非キリスト教である仏教の「祈祷」の様式であり、そこでは死者のための祈りが献げられている。その意味では全く(プロテスタントの)キリスト教と相容れない。今日本のキリスト教は極少数者であるから、私たちは自己防衛のためにも疑われるような行為は厳に慎まなければならない。つまり、焼香をすることで「何だキリスト教とも葬式は仏式なんだ」とか「キリスト教とも冥福を祈るんだ」とか思われることは極力避けなければならない。日本の非キリスト教徒は、驚くほどキリスト教についての知識が無いのだ。クリスチャン自身も、周囲ほとんどが非キリスト教徒という環境において自分の信仰を保つ困難な、たかが焼香という蟻の一穴から信仰生活の最も根幹に属する部分が崩れてしまうことになりかねないのだ。
上の一文を読んである人たちはピリピリッと来るかもしれない。「焼香をしない=偶像崇拝をしない」ことこそ、「信仰生活の最も根幹に属する部分」であって、単なる蟻の一穴ではない。堤防の大決壊だ。という方がおられるだろう。件のメーリングリストの物議も、そうだった。でも、私は「焼香は蟻の一穴」とあえて言おう。件の発言者も(撤回しちゃったけど)そう言いたいのだろう。


現在キリスト教は極少数派であり、焼香をするしないという選択は、その人の信仰生活に対する自他の見方に大きな影響があるかもしれない。しかし、キリスト教徒がマジョリティーになった時、どうだろうか。もしキリスト教式の葬儀に出席した人たちの中で、誰かが「自分は仏教徒なので、立って賛美歌を歌ったりはしません」「祈る時、アーメンなどと言いません」とか言い出したらどうするのだろうか。またもし仏式で葬儀を挙げたいと遺族が希望したらどうするのだろうか。仏式や神道式の葬儀は禁止されるのだろうか?
キリスト教徒は非キリスト教徒がそれぞれ別の様式で葬儀をすることの自由を認めなければならないし、それらの様式が果たす役割、特に「何も理解していない」キリスト者や非キリスト者が染みついて守っている宗教儀式の意味を、できるだけキリスト教の枠内で受けとめなければならない。つまり、焼香をして死者を弔いたいという家族の宗教的な欲求を出来ればキリスト教の範疇で受けとめ、昇華させるべきではないか。
焼香をすると言うのは、キリスト教式の葬儀で参列者が皆で賛美歌を歌い祈りに応えてアーメンと唱和するのと同じことではないか?つまり、「葬儀に参列している」という表現手段なのではないか。であるならば、仏教徒キリスト教の葬儀でアーメンというようにキリスト教とは仏教の葬儀で焼香をしたり手を合わせても良いのではないだろうか。
 焼香についての肯定的な見方は、せいぜい文脈化の議論からだったり、「牧会的配慮」という名の妥協の産物ででしかない。しかし、「異教徒と共に生きる」のであるならば、互いの宗教を守りながら、かつ互いの宗教を受け入れる道を積極的に見出すべきではないだろうか。
(明るくなってから随分手を入れたよ)