キリスト教+社会派でググってたら

こんなエントリーを見つけた。先日私のトコでも取り上げた、ミストについての超映画批評についての批評だ。
http://d.hatena.ne.jp/S2D2/20080515/p2
更に、はてなブックマーク - 超映画批評『ミスト』90点(100点満点中)経由で、
2008-05-16 - 絶叫機械+絶望中止も読んだ。
前者は刑法史におけるキリスト教の立場から認識の間違いを指摘している。後者は罪と罰の関係に関連して、(矮小化された)答えを提示することを間違いを指摘している。


ぶっちゃけ、私は映画そのものを見ていないから、映画についての解釈や評価が妥当かどうかは何も言えない。
言い訳をすれば、映画と関係なくても、背景となる知識や解釈として間違っていたとしても、

本来、神にしか許されない裁きを、キミたちは無意識のうちにおこなっていたんだよ

この一文に、あぁそういうことか。と思ったから、あのエントリーを書いたのです。

超映画批評については、ミストについても、たとえば歴代最低点を叩きだした、超映画批評『靖国 YASUKUNI』0点(100点満点中)にしても、その映画に用いられているテクニックが持っている意味を説き明かしているところが好きなのです。


刑法史との関係のことで言えば、上記エントリーが指摘するように、何も民主的裁判制度や死刑廃止キリスト教の発明でも専売特許でもない。その辺、キリスト教徒は自分たちだけが世界の全てであり、全ての源泉であるかのような勘違いをする事があるので、自戒すべきだろう。(あれ?どっかで見たような?)


罪と罰について言えば、二つ目のエントリーの文章について思ったこと

 生きていると、自分の罪を思い出して耐えかねるときがある。それは他人から見れば小さなものかもしれない。誰かを言葉で傷つけた、誰かの損になることをした、誰かの失敗を嘲笑った、誰かに嘘をついた。反省も後悔もいつまでも続いている、でも、罪を犯した自分の心はうす汚れてしまって、もうもとには戻らない。

 ねえ旦那、おれは救われますか?祈れば救われますか?死んだあとで救われる?じゃあ祈らねえ。いまこの心にさかさ棘みたいに突き刺さっているのが消えないなら、祈る意味はねえんだ。ああ、生きることが罪なんですか、じゃあ旦那はなんで生きてなさるんで?

おれたちはやらかした、取り返しのつかないことをやっちまった。もう何も、もとには戻らない。心に刺さったさかさ棘が抜けない。神も悪魔もない、やらかした罪だけがそこにある。誰も引き受けてはくれねえのだ。

それを引受けて、いまその刺を引き抜いてもとに戻すのがキリストなんだよ。

って言ったら罵倒されるか呆れられるだろうけど、でもそうなんだよ。