思いだしたこと

終風爺さんのエントリーで先日書き忘れたことを思いだした。
私自身は、ピューリタンの血を受け継いでいながら、エバンジェリカルからリベラリストにシフトしつつあるクリスチャンだけど、ずいぶんリベラルなクリスチャンでも、プロテスタントのクリスチャンって、クリスチャン同士でセクシャルな話題をすることはほとんどない。たぶん皆無だと思う。終風爺さんが指摘するように、カトリックの信者なら司祭に対してこの手の話をすることはあるだろうけど、プロテスタントでこんな話はほぼ絶対にでない。出る時には、ピューリタン的な一穴主義教育の場か、逆にその人が何らかのペナルティーを受ける(浮気がばれた、離婚した等々)等、むしろ極めて難しい顔をして話すときに限られる(と思う)。
だけどそれって、人間の中に必然的に生じてくる感情(古い言い方でいうと「よろめき」)を抑圧し、精神的抑圧を解消せずに個人化するだけで何の解決も生まない。むしろ(キリスト教)社会の中で「ハブる」行為を生むだけのように思う。
要は、姦淫違反者を石もて追うのではなく、共同体に再び受け入れるシステムを作らないと、ダメだろって話。

って真面目なことを書いたけど、実は、この前坊さんと呑んだ時に、一人の坊さんが浮気した話をみんなでゲラゲラ笑いながら聞いて、内心吃驚したってだけのことなんだけどね。