坊さんと呑んだよ
以前にも書いたことがある知り合いの坊さんと久しぶりに呑んだよ。今回は、彼と同じ宗派のもう一人の坊さんも一緒。どちらも知り合いなんだけど。
ただ、今回の話は前回ほどはピンと来なかった。何だか良く判らないなという感じ。相手がおんなじ宗派の人同士なので、内輪用語・内輪概念だったのかもしれない。まぁ相手も私も酔ってたってのもあるし。
幾つか書き残しておこう。
ロゴスがイケナイってはなし
これは前にも書いたかもしれない、キリスト教はロゴスロゴスっていうのがいけないって話の流れ。彼が言うには、キリストをロゴスだってことにしたのは、ローマカトリックなんで、元々はキリストはロゴスじゃなかった。本当ならそのロゴスを突き抜けて真実を目指さなければいけないって話。
で、ピューリタン革命は、その「ロゴスを突き抜けて真理に到達する」を回復しようとしたのに、お前らはそれをまたロゴスに戻してしまっているからダメなんだ。とのこと
なお、「突き抜けて」とか「到達」は、それぞれ違う言い回しをしていたけど良く判らない。もしかしたらニュアンスが違っているのかもしれない。
キリストがロゴスでなかったってのは、どういうことだろう。それが「パウロ宗教」とか「ナザレのイエス」とか「田川建三」とかの関連の話だとしたら、「ピューリタン革命がそれを突き抜けようとした」と言うのは違う。「最近の聖書学が」って話なら判るし、確かにそれに対して私はメイチェンの系譜に属する者だ。でもいくらキリスト教を知ってても、ウチの聖書学に対するスタンスまで知ってるとは思えないしなぁ。
ところで彼は、「宗教改革」とは言わず、「ピューリタン革命」と言ってた。もし彼が、「プロテスタント対カトリック」ではなく「ピューリタン的な敬虔主義対体制主義」と言う対比を思い浮かべていたのだとしたら、彼は「ロゴス」を「この世における教会制度(の基盤)」と理解しているのかもしれない。つまり、カトリックのようなこの世の巨大な制度を追い求めるのではなく、もっと信仰者一人ひとりの敬虔を追い求めろよ。ってことになる。
そもそもピューリタン革命に「敬虔対体制」なんて対立軸があるのかどうかも良く判らないけれど(恥)、カトリックなんてむしろけっこう敬虔を追及している。そもそも個人的敬虔は確かに大切だけど、元々「ロゴス」はそれと対立する概念ではない。
結果良く判らない。ってことで。