四国新聞 一日一言

広告が多いからと言う理由で地元紙を購読しているのだけれど、一面の一番下にある文章(朝日新聞で言うところの天声人語の欄。何て言うんだろ?)が酷かった。そのうち消えてしまうだろうから、最後に全文引用しておく。
kagawa_column
香川県のニュース:6月5日付・一日一言

話は、例のダ・ヴィンチコードへのキリスト教会の抗議から始まる。一言映画の内容に触れた後、こう書く。

こんな事(キリストに実は妻子がいたという“事実”)で殺人なんてと思ってしまうが、キリスト教社会では一大事らしい。(中略)フィリピンは十八才未満の鑑賞を禁じたし、ニュージーランドでは映画館での上映そのものが禁止された

こう言う書き方をすると、映画への反対が、映画の中での殺人者と同じ動機目的を持つものであるように読めるではないか。その意図が無いというのであれば、文章がヘタクソなのだし、その意図があるのであれば、キリスト教徒をバカにした話だ。キリスト教会が反発しているのは、「事実無根」なことを事実であるかのように伝えていることに抗議しているのであるし、まるで実際のカトリック教会が、その事実無根の疑惑を殺人などという非合法な手段で葬ろうとしているかのように伝えていることに抗議している(筈な)のだ。殺人に反対している人を捕まえて、まるで殺人犯と同類であるかのように描写するとは何事であろうか(怒)。

日本は誰もが自由に発言でき、宗教にすがらなくても生きていける社会になった。経済的な豊かさと寛容は無関係ではあるまい

絶句。呆然。
表現の自由と、日本人の無宗教化と、経済発展と、社会的な寛容に、ここで書いてあるような直接的な因果関係など無い。
この新聞は、報道機関が表現の自由の問題に取り組んでいる戦いに全く目を向けていない。日本人の無宗教化がはらむ問題を無視している。当然、今教育基本法の改正問題で取り上げられている宗教教育など不必要であると主張する筈だ。(あの改正自体、良い事とは思えないが、それはまた別のこととして)経済発展至上主義であり、日本人の非寛容さには全く気付いていないということになる。
いちいち反論するのも面倒だけど、宗教にすがらなくても生きていける社会が好きなら、共産主義にでもなればよい。あれが失敗であることはもう既に歴史的に証明されたと言っていいと思う。更に言うならば、日本社会は決して「宗教にすがらなくても生きていける社会」になどなっていない。前の日の同じ欄で、善通寺をあれだけ持ち上げていたのを全く忘れているのだろうか?
すがらなくてはならない人がすがることが出来ず、すがるべきでないところにすがってしまっているのが、日本の精神社会、宗教世界の最大の問題であるというのに、何を見ているのだろうか?

今回も反発はあるが、イスラムの時ほどの過激さはない。(中略)経済的な豊かさがすべてではないと分かっているつもりだが、人気が出るほどに、イスラムとのギャップが悲しくなる

それはステレオタイプに基づく偏見、差別です。

最初にも書いたけれど、おそらく、すぐ消えてしまう文章なので、後のために、全文引用しておこうとおもう。問題があるのであれば、消しますよ。

 キリストに実は妻子がいた、との設定で話題の映画「ダ・ヴィンチ・コード」。キリスト教の根幹を揺るがす“事実”を何とか葬ろうと、熱心な信者が次々と殺人を犯す。

 こんなことで殺人なんてと思ってしまうが、キリスト教社会では一大事らしい。カトリック信者が八割を占めるフィリピンは十八歳未満の観賞を禁じたし、ニュージーランドでは映画館での上映そのものが禁止された。

 デモ行進で抗議の意思を示す人もいる。ソニーの関連会社が映画を配給していることから、ソニー製品の不買運動に乗り出す宗教団体もある。想像以上の反発だ。

 しかしこうした反発は、キリスト教特有の話ではない。記憶に新しいのは、イスラムの風刺画問題。それ以前にも小説「悪魔の詩」の作者が命を狙われた。いずれもタブーに触れたのがきっかけだった。

 日本でもタブーはあった。例えば高僧が死ぬことを入滅というが、空海の場合は「入定」。皆を救うために生き続けているとされている。「少なくとも戦前までは、真言宗で『死んだ』は禁句だった」と宗教学者に聞いたことがある。

 だが今、人間空海の死を論じたところで、誰もデモ行進には及ばないだろう。日本は誰もが自由に発言でき、宗教にすがらなくても生きていける社会になった。経済的な豊かさと寛容さは無関係ではあるまい。

 今回も反発はあるが、イスラムの時ほどの過激さはない。映画の中の殺人事件をよそに、現実の欧米では映画が大人気で、論争を楽しんでいる節さえある。経済的な豊かさがすべてではないと分かってはいるつもりだが、人気が出るほどに、イスラムとのギャップが悲しくなる。