なぜ人を殺してはいけないのですか?

土曜日だったか、NHKラジオで、癌になった(克服した?)先生が、命の大切さについて授業をしている様子が放送されていた。その中で、気になったことが二つ。


一つ目
何故「人を殺してはいけないのか」と言う最近流行りの問題について、その先生は、これも最近定番となっている回答、「自分が殺されたくないから、人を殺してはならないと言う原則を一般原則とする」と答えていた。
この答えは、多いに不満だ。だったら、死にたい人、死んでも良いと思っている人は他人の命をも尊重する必要がないということになる。そんな筈はない。キリスト教は、キリスト教に限らず、一般的に宗教は、この問に対する答えをもっている。簡単なことだ。つまり「人の命は、その人自身のものではなく、他の人のものでもない。人間は誰も、自分の命を含めて、全ての命を損なう権利を持っていない」ということ。キリスト教であれば、「全ての命は主なる神の所有物である」と言うことになる。私の命だろうと、他の人の命であろうと、それを傷付けたり、ましてや奪ったりすることは、人間に許されていない。それは神のものだから。そして神は、わたしたちがその命を享受し、十分に豊かに用いることを願っているのである。


二つ目
自殺についての議論で、その先生は、自殺はするなと言っていた。どんなに苦しくてもどんなに辛くても自殺をしてはいけない、生きなくてはいけない。それが人の務めである。と言うのだ。判らないわけではない。キリスト教であれば、神は人に生きるように命じている。人は生きるべきもの、死ぬべきものではない。
しかし、絶望の縁にある者、それどころか絶望のそこにある者に、「お前は何が何でも生きろ」と言うのは、ある時には「死ね」「死んでいいよ」と言うよりも残酷なことである。
そこでは、その絶望を共有するもの、そこに共に立ってくれる者、一緒に苦しんでくれる者が居なければならない。穴の中にいる者に、穴の外から、「出てこい」というのは簡単だ。自分もその深い穴の底に下りてきて「一緒に上がろう」と言ってくれる者がいなければ、「生きろ」と言う声は残酷だ。
で、我田引水すれば、キリストは、そのような者だ。
で、自縄自縛すれば、宗教者はそのような者でなければならない。