11年かぁ

毎年この日は意図的に忘却しようとしている。ラジオもNHKを避けて、FMなんかを聞いてる。それでもニュースなどを聞いてしまって心が騒いでしまう。
今日はNHKテレビのお昼のニュースを見ながら、揚げ足を取りながら、それでもそのニュースを最後まで見ることが出来た。10年経って初めてかもしれない。

あの時わたしはあの場所にいた。
ようやく明るくなってから、寮の周りを見て歩いていたら、「おじいちゃんが死んでしまった〜」って泣いてるオバサンが居た。駅の近くから煙が上がっていたのを眺めていたけれど、その下で大学生が亡くなっていたことを後で知った。中学校の理科教室は遺体置き場になっていて、毛布の端から足の裏が見えていた。近所の古い店が潰れていた。2週間前に一緒に食事をしたお婆さんが亡くなっていた。
「どうしてあの時…」と悔やんでいる。いまだに悔やんでいる。自分にできることはもっと沢山あったはずだ。もしかすると救うことが出来る生命があったかもしれない。でも、そんなこと思いも寄らなかった。どうして思いも寄らなかったのだろうと思うと悔やまれる。


あの時あそこに居なかった人には分からない思い。あそこに居なかった人には分かち合えない思い。あそこに居なかった人には癒せない思いがある。わたしはあの時あの場所にいた。でも、わたしもいなかった場所がある。潰れた家、火事になった家、道端で朝を迎えた人、彼らの思いはわたしにも共有できない。共有できないことが悔やまれる。
まるでそれが共有できるかのように、同情できるかのように、慰めることができるかのように語るのは嘘だと思う。苛立つ。だからニュースは見ることが出来ない。


語らなければならないのだろうと思う。乗り越えなければならないのだろうと思う。でもまだ無理だ。まだこの思いは私一人で負っていかなければならない。