心の傷

尼崎の列車事故で、毎日新聞の記者が一両目の車両に乗り合わせていて助かったということで、事故の状況を振り返っている。http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20050501k0000m040061000c.html
この話自体重い話で、色々な思いが巡るのだけれど、最後にこんな一言がある。
「だが、この事故にどう向き合えばいいのか、まだ考えはまとまっていない。」

この事故では、直接被害に遭ったり、家族を失ったりした人だけでなく、多くの人が心の傷を負った。この事故に限らず、最近はこの「心の傷」に理解が向かうようになった。そのこと自体は良いことだと思う。しかし、「すぐにカウンセラーを派遣して、PTSDの治療にあたる」という話になるのはどうかなと思う。中越地震の直後にも、幼稚園だかに「東京からカウンセラーを派遣して……」なんて話をしていた。いったい、地震を怖がって夜泣きしている幼児に、昼間見たこともないどこかのおばさんが、何か一言二言話して解決するとでもいうのだろうか。それよりも、親か、幼稚園の先生が、ゆっくり一日遊んであげるほうが、よっぽど解決になるのではないだろうか。

同じように、今度の事故では、JRの対応が問題になっている。しかし、JRの社長が、どんなに涙を流して見せても、土下座をしても、それで癒されることなどありえない。謝罪や真相究明や賠償と、心の傷の癒しは別の次元の問題だ。


おそらく、少し前の日本であれば、皆で盛大に葬式をして、親族は涙を流して、親戚の人に慰めてもらって、四十九日や何回忌なんて言う「弔い」をして、それで段々と心を癒していったのではないだろうか。
キリスト教であれば、葬儀をして、不条理な悲しみにさえ全能の神の御心が働いていること、底知れぬ悲しみにも神の救いと慰めが働いていること、そして、この別れが滅びではなく、永遠の別れでもないことを宣言されて、慰められることになる。
そう言う「慰め」の機能が、今の日本には欠けている。

いくら裁判で勝っても、犯人に謝罪させても、真相なるものが明らかになっても、それでは悲しみは癒されない。(最後は話が横滑り)