せっかく憲法の日だから

もし「あなた、改憲派ですか、護憲派ですか?」と聞かれたとしたら、どう答えるだろうか。私は、もし、ゆっくり話す時間がなかったり、わかって貰えそうもないだろうなぁと感じる時には、「一応、護憲派ですかね?」くらいに応えると思う。けれども、もし説明するだけの時間があれば、「どっちかと言えば、もしかすると改憲派かも知れませんね」と答えるかもしれない。
 ※5/4全体を加筆推敲

一般論として、「憲法を変えることが是か非か?」と問われるならば、答えは「是」に決まっている。そもそも、決して手を加えてはならない法律なんてありえない。法律は歴史遺産や記念碑ではない。世界の情勢は変わるのだし、法律制定時の理解が時代を越えて全く正しいなどということはありえない。法律は、常により良く現実を律することが出来るものを目指して変わっていかなければならない。当然憲法もそうだ。と思う。


ただし、こんな風に「改憲派or護憲派?」と尋ねられた時は、大概「一般論として憲法を変えることが是か非か」と問われているのではない。それは憲法9条(と憲法の前文)の改訂について、特に指している。
しかし、もしそう問われているとしても、やはり私の答えは「是」に決まっている。
 (ここが、自分がいわゆる「護憲派」と違うかなぁと思うところ)
なぜなら、決して変わることが出来ないならば、むしろそれは内実を伴わないものとなりかねない。むしろ、変えることが出来るものだからこそ、その意味するところが受け止められるのではないだろうか。と思うのである。
9条が言わんとしていることは何か。その精神は、正しいのか。間違っているとすれば、何がいけないのか。正しいのだとすれば、それが誤解無く言い表され、実現されているのか。されていないとすれば、より誤解無く、よりふさわしく実現するにはどういう表現にすればよいのか。こんなことが問われることになる。
ちょっと乱暴なたとえかもしれないけれど、人間は命を捨ててしまえば、二度と取り戻すことが出来ないから、人生は二度と繰り返すことが出来ないから、自分の人生を価値あるものとして生きようと願うのであって、決して死なない、決して変わらない人生なんて苦痛以外のものではないのではないか。

逆に、これも極端な話だけれど、憲法9条改憲できるなら、例えば第二項を「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、(いかなる戦力であってもすべて)これを保持しない。国の交戦権は、(自衛の名目であっても)これを認めない。」と改憲する可能性だって無いわけじゃない。(って無いか。)


ただし、「改憲派or護憲派」と尋ねられた時に「変えることは是か非か」と問われているのは、一般論として憲法9条を変える可能性について尋ねているのではない。それこそ、上に書いたような改憲について聞かれているのでもない。「改憲」という言葉には、憲法9条の軍事力不保持原則を無くすないしは小さくする方向での改憲のことを指している。

つまり、「あなたは改憲ですか?護憲ですか?」と聞かれた時に、本当に聞かれているのは、要は「憲法9条を改訂して、戦力を保持することを認めることに賛成ですか反対ですか?」と聞いているのと同義ということになる。

何を面倒な話をと思われるかもしれないけれど、憲法に対する態度は、そんなに簡単に「改憲」と「護憲」に分けることが出来るものではないのではないのか?と思うのだ。憲法改定には様々な選択肢があると言うことだ。より平和主義への改憲もあるし、少なくとも、現行の9条ではあいまいである点があるなら、それを解消する改憲もある。少なくとも、改憲の可能性があるならば、そのために、実際自分たちにとって9条とはどういうものなのかということを「国民的な議論」にすることが出来るのではないだろうか。と思うのである。
特に護憲派の人たちが、その辺について、理解がないというか、自信がないのではないかと思う。憲法改正の手続きを決めたら、即憲法9条が無くなってしまうかのような言い方は如何かと。日本人はもう少し考えているのではないか。少なくと考えるように促すことこそが、考えなくとも憲法9条があるよりも、ずっと9条の精神を活かすと思う。

甘いですか?ソーですか。