誰のせいか

「津波は天罰」=石原都知事「我欲を洗い落とす必要」
翌日には謝罪撤回したけれど、彼は前からこういう人だったから何も驚かない。他にも、クジラを殺した罰だとか、大相撲を開催しないからだとか、神を信じないからだってのもあったらしいけど、みんな何かのせいにしたいのだろう。

これも私の信仰によるところが大きいんだけれど、キリスト教は(教派によって人によって程度の差こそあれ)、あらゆる出来事は「神の御心」である。つまり、神の管理下にあると理解する。では、こんな悪い出来事、不幸な災いも神の責任なのか、と問われると「そうとも言えない」とお茶を濁さざるを得ない。人間の悪に対する所謂「天罰」であるとか、人間を脅して反省させようと言う教育的目的であるとか、人間が本当に自分に服従しているかのテストであるとか色々な理由がこじつけられる。
けれども、ちょっと違うと思うのだ。
で、少し聖書の話をする。面倒くさい話なので、読まなくても良い。次の段落に飛んでくれww


この手は、聖書の中のヨブ記に出てくる。
何も悪いところは無い(筈な)のに、家族も財産も健康も一瞬にして失ってしまうヨブは、友人たちとこの災いの原因が何であるか議論する。友人たちは彼の落ち度に対する罰だと指摘するが、ヨブは自身の潔白を強く主張する。その議論の最後に突然神が登場し、神の存在が人間を遥かに超えていることを示し、ヨブを沈黙させる。
ヨブの苦しみはほったらかしであるとか、ヨブは自分が高慢であることを悔改めたとか、説明されるが、ヨブは神が自分に応えてくれたことで、自分と神のつながりは変わらずにつながり続けていることを確かめることができた。ヨブは神に自分の苦しみを聞いてほしかったのだ。応答してほしかったのだ。元々なぜ自分に災いが下ったのかなどということはヨブの興味の的では無かった。彼にとって重要だったのは、神が自分を見ていてくれるかどうか、聞いていてくれるかどうか、応えてくれるかどうかであった。そして神は直接語りかけるというこれ以上は無いやり方でヨブに応えた。だからヨブは不平を言うのをやめて沈黙したのだ。

閑話休題
人間の世界は決して因果応報ではない。正しい親切な人でも不幸になるし、何の理由も無く災害に見舞われる。不条理な苦しみを経験しなければならないことは多々ある。それはみんな「神の御心」なのだ。神の管理下、神の責任においておこる事柄なのだ。しかし往々にしてその管理責任者は事態の理由、その出来事が起こった根拠、目的などを私たちに明らかにしない。当然そこで私たちは不平が溜まる訳だが、私たちはその不平を訴えることができるのである。「世の中は不条理だから」とか「何かの天罰だ」などと諦めたり、自分を責めたりする必要は無い。(もちろん自分が悪いのだったら、きちんと自分で反省する必要があるのだが。)
「俺にはこんな苦しみを経験しなければならない必然性も責任も落ち度も何も無い」「神よ、お前が私を不幸にするのだ」「なんとかしろ」「応えろ」「目を向けろ」
人間のクレーム処理係であれば根を上げるような不平であっても、神はすべて受け止める。すべて応える。何しろ全知全能の神なのだから。
この出来事は天罰ではない。因果応報でもない。私たちはここから何か教訓を学ばなければいけないのでもない。
神よ。落ち度無い幾万もの人々の命を奪ったのはあなただ。あなたが責任を持って悲しむ人を慰めよ。あなたが責任を持って苦しむ人を支えよ。あなたが責任を持って平和を回復させよ。


以下、(内容的に)くだらない妄言についての記事、全文引用

時事ドットコム
津波は天罰」=石原都知事「我欲を洗い落とす必要」
 石原慎太郎東京都知事は14日、東日本大震災に関連し、「津波をうまく利用して『我欲』を一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と発言した。都内で行われた蓮舫節電啓発担当相との会談の後、記者団に語った。被災者への配慮に欠けるとして、批判を受けそうだ。
 知事は、所在不明高齢者が最近社会問題化したことなどを挙げ、「日本人のアイデンティティーは我欲になった。金銭欲、物欲、性欲」と指摘。「アメリカの国家的アイデンティティーは『自由』。フランスは『自由と博愛と平等』。日本は無い」と強調した。半面、「被災者の方々はかわいそうですよ」とも述べた。
 知事は同日、都庁での記者会見で発言の真意を問われ、「例えば、減税という耳障りのいい言葉で釣られて国民が歓迎するという心情が、今の政治を曲げている。(今回の震災が)大きな反省の一つのよすがになるのではないか」などと説明し、撤回しなかった。(2011/03/14-22:10)