できることを

多くの人が亡くなったり、行方がわからなかったりする。昨日ようやくニュースの津波の映像を見た。その水の下で何百人、何千人という人が命を落としていると思うといてもたってもいられなくなる。神戸の地震のときには家屋の倒壊や火災で多くの人が亡くなった。街の一ブロックが丸々消失しているのを見て呆然としたが、一家全員亡くなるとか、地区全員行方不明というほどではなかった。今回の被害はあのときとは全く違う。人間の存在そのものを揺るがす。

ちょっと話が逸れるようだけれど、
私自身の信仰とも結びつく確信として、人は皆、価値ある存在として存在し、その人生を送るべきものである。その価値が確かめられる機会は時々あるが、どんな人でもその価値を認めてもらうことのできる機会は、その人の葬りの時である。人々は亡くなった人を惜しみ、涙する。その人に感謝する。そこにその人の人生の価値、生きてきた価値を見ることができる。
しかし今回、あまりにも多くの命が損なわれた。多くの人が通常の葬儀をすること無く葬られなくてはならないだろうし、それどころか葬られることのできない方もいるだろう。その方を葬り、涙する筈の人がいないこともある筈だ。
仏教が葬式仏教と揶揄されるように、宗教家が葬儀に思いを向けすぎることを蔑む意識が宗教家自身にも周囲の人にもある。しかし宗教家は亡くなった人々を葬儀をすべきだ。葬儀といって語弊があるなら、追悼すべきだ。一人でも多くの人を葬り、一人でも多くの人のために涙を流し悼むべきだ。
それがモノではないこと、亡くなって忘れられるものではなく、かけがえの無い価値であったことを証言するために。