マスコミはこう言うとき率先して一週間くらい喪に服してくれないかな?

アニメがどうとか、インターネットの掲示板がどうだとか、格差社会の病理だとか、派遣の悲哀だとか、パワハラがとか、色々言われているけれど、アーミーナイフを規制するというのは斜め上過ぎてネット上には失笑が満ちている。
彼の年齢がちょうど八年前に「17歳の犯罪」が話題になった時のその少年たちと同年齢であることを指摘して、少年犯罪の規制に話をすり替えたNHKの解説員がいて、これも唖然とさせられた。しかも、事前のシグナルをキャッチして対応せよと言う地震予知とさほど変わらない非現実的な方法を取り上げてた。親に「ぶっ殺してやる」って言ったからって、学校の先生から、セラピストから、警察からみんなゾロゾロ呼ばれたらかなわない。
人を傷つけてはいけない、人を殺してはいけない、しかも関係ない人の命を奪うなどということはもっての他。こんなことは誰でも知っている。街を歩いていて、今目の前にいるこの人の頭をいきなり殴ってみたいなって衝動に駆られることがあるけれど、ほとんど全ての人は、ほとんど全ての場合、その心の闇を心の日の当たらないところに押し込むことができる。けれども時々、それができなくなってしまう人、できなくなってしまう状況が生まれることがある。そうなると、心の闇は日のあたるところに爆発的に覆い被さってくる。そのきっかけは、傍で見るとなんでもないことだったりする。もちろんその一つの出来事がきっかけなのではなくて、沢山沢山の積み重ねが積み重なって、駱駝の背に乗せた最後の藁一本が、それであったということに過ぎない。積み重ねられた一つ一つも、他の人から見たら乗り越えられるようなものでしかないかもしれない。
みんな心に闇を養っている。毎日毎日その闇に餌を与えて成長させている。誰の闇がいつその檻を破るかは、誰にも判らない。もちろんその人自身にも判らない。
ずっと以前、ねじまき鳥クロニクルを読んだ時、あんな風に綿谷昇を殴り倒せるのだったら、どんなに楽かと思った。そのことを思いだした。
以前、ある都会の牧師が講演で、「近所で少年犯罪が起こったけど、誰も『教会は何をしている!』って文句を言ってこなかった。これは宗教家にとっては大変深刻な事態だ」とおっしゃっていた。確かにその通りだな。