定点観測

なんと25年も経ってしまった。

気づくと自分の人生の半分が震災後になる

2〜3日前のテレビで見た話、息子が灘区の下宿で亡くなった父親が残した詳細なメモ書きが残っていたそうで、母親と妹さんがインタビューに答えていた。父親は数年前に亡くなったんだそうだ。母親も当時20代だった妹さんもそれなりに年齢を重ねている。残った写真や録音だけはそのまま。

父親の思いもそのまま、母親たちの思いもそのまま。

一体これはなんなんだろうと思った。

あの時火事の煙を眺めつつ助けに行かなかった自分を思い出した。

2年ぶりの定点観測

ちょっと伝があって、立川防災館というところに行った。

はっきり言ってとてもイヤな気持ちになった。これは吐き出しておかなきゃいけないと思ったので今日書く。

幾つかの体験をしたのだけれど、壊れた家の中から人を助ける訓練とか、倒れた家具の下の人を助ける訓練とか、不快だった。
どこの家に家具を持ち上げるテコにできる一辺15センチの角材と大人が全体重をかけても曲がらない長さ1m以上の鉄パイプとかがあるんだろうか。
家が潰れた時に、長さ15cmのノコギリ一本で屋根を切って人を引っ張り出すなんてことができるだろうか。
身構えているところに「はい震度7です!」って言われて、テーブルの下に頭を突っ込む体験に何の意味があるんだろうか。

最終的に映画館みたいな部屋で、神戸の震災で生き残った人の証言フィルムみたいのを見せられそうになったので、気持ち悪くなるのが目に見えてわかったので、早々に出てしまった。
中身を見てないからわからないのだけれど、生き残った人がどうやって生き残ったかを聞いても、生き残れなかった人をなぜ助けられなかったかを聞いても、同じ経験をする機会なんて訪れない。

要は、大多数の人が、簡単な怪我は治せる。三日くらい野宿ができる。大工仕事が一通りできる。ようになればいいんだよ。

死刑執行

何気なくテレビをつけたら、松本死刑囚の死刑が執行されたとのニュースを流していた。
あの事件は日本の宗教史においても記憶されるべき出来事であった。日本の宗教法人法は、宗教界に自浄作用が働き、自分たちで律するもの、少なくとも相互に律することができるものであるという信用の上に成り立っていた筈だ。しかし、キリスト教はもちろん、仏教も、その他の宗教もオウムを止めることも、警告することもできなかった。
そして宗教が物理的な他者攻撃能力を持つことも社会の想定外だった。詐欺や家庭放棄などはあったけれども、物理的に他者の命を奪うことを宗教が容認したり、ましてや推進、強制することなどありえないと思っていた。
しかし、宗教は暴力を容認するものであるし、日本の宗教界は相互検証能力相互警告能力を持っていないことが明らかになった。政府は宗教団体を行政による検査対象とみなすようになったし、社会は宗教を暴走しうるもの、自分たちの生活と身体を侵害しうるものとみなすようになった。
宗教家はこの日を宗教が処刑された日として記憶しなければならない

リードオルガン

知らない人はびっくりするかもしれないけど、今、リードオルガンの新品を買うことはできないらしい。
国内でリードオルガンを製造しているメーカーがなくなったこと、つまり、ヤマハとかのメーカーがリードオルガンの製造を中止したことを知ったのはしばらく前のことだ。
先日ある別の教会の人に聞いたら、一社〜二社あった海外のメーカーも今現在作っていないのだそうだ。
私が子供の頃は学校の音楽室に足踏みオルガンがあったもんだけど、今は全部電化されているのだろうか。
教会がオルガンを買うというと、電気オルガンか頑張ってパイプオルガンをって話のようだ。一時に比べると国内でもパイプオルガンを造る人が増えているように思うけれど、当然のことながら桁違いに高価だ。
そもそも電気であってもパイプであっても日本の教会の標準的な広さに比べると規模が大きすぎる。かといって小さければ良いというものでもない。パイプオルガンは小さくしても値段が安くなるわけではない。むしろ構造が細くなって大変なんだそうだ。電気のオルガンはこれはもうスピーカーのサイズによるんで、小さければ小さいほど特に低音が響かない。安価なキーボードと大差無くなってしまう。
なぜ、細々とでもリードオルガンを作るメーカーがないのだろうか。先日この話題でちょっと検索したら、とてもアンティークな9ストップ(そこそこの機能を持ってるくらいの意味ね)のオルガンが6桁前半で売られていた。多少大きなスペースで音が鳴るように工夫して、7桁前後でも需要があるんじゃないだろうか。
リードオルガンの音が好きなんだけどな。

宮◯駿と食べ物と水

このところまたジブリ映画をやっている。
面白いから録画してみるんだけれど、いつも思うのは、この人はあまり人間が生きるということに興味がないのではないかということだ。こんなことを書くとおかしいと思われるかもしれない。ジブリの映画は人間の生について主題としているし、彼が描写する生活の様々な情景はとても豊かな表現であると折り紙付きだからである。
けれども、私はそうは思わない。一番良い例が、彼の食べ物についての描写である。何を言うか、彼の卓越した描写は特に食事シーンに表れているではないかと言われるだろう。例えば先週やっていた「千と千尋」冒頭の両親の食事シーン、神々やカオナシの食事描写はとても素晴らしいと言われる。けれども、あの両親が食べている饅頭や肉はいったい何でできているのだろうか。ラピュタに出てくるトーストに乗せた目玉焼き。あんな風に白身を加えてぶら下げてタランと垂れてでも破けない白身と黄身はいったいどうやったら作れるのだろうか。古くはカリオストロの名シーン。次元とルパンのスパゲッティー。あの引っ張りあって伸びても千切れないパスタは決して小麦粉で作られたとは思えない。むしろゴムとかシリコンを想像させないだろうか。あれらの食べ物がリアルな食べ物とは決して思えない「何か」にしか見えないのは私だけだろうか。
水について。震災以来サザンのTSUNAMIがかからなくなっているそうだけれど、ポニョはなぜ平気なのだろうかと心配するわけだが、あの映画に出てくる水は、とても水と思えないほど極めて粘度が高い。先週の千と千尋でもそうだった。水が水とは思えない。その中で呼吸ができ、むしろ生き生きとする、いわば羊水のような正体不明の液体が溢れている。ポニョの津波シーンはあの当時はある一定のリアリティーがあったと思うけれど、震災のあの映像を突きつけられた後には、単なるファンタジーに過ぎなくなってしまった。そもそも宮崎作品は、古くはカリオストロでもそれこそコナンでも、特に引力に関して物理法則を無視したシーンが多い。彼の動きは重力の影響が低いないしは粘度の高い液体中で行なわれているようなのである。
彼はしきりにオタクと呼ばれる人たちを批判し、社会に自然の中に出ていくことを勧めるが、彼自身彼の世界の中に収まってしまっているように思うのは私だけだろうか。

プロテストソング

最近、何のきっかけか忘れたけれど、忌野清志郎の曲をYOUTUBEで検索しては聞いている。
彼は本当にプロテストソング歌いだったなぁと思う。
君が代をパンク風にアレンジして歌った動画も挙がっていて、色んな人が色々言ってるけれど、
そこに(権)力が在ったら抗うのはロックの本質でしょう
そういう歌うたいがいなくなったなあと思う。

清志郎の曲を流していると、大抵いつも甲本ヒロトとのジョイントが流れ、そこからブルーハーツになってしまう。
ブルーハーツと言えばパンクを青春パンクに矮小化した大本みたいな印象があったけれど、リンダリンダにしても他の曲にしても絶望的な力の前で、なお力強く拳を握って声をあげるという随分パンクなぶつかりかたをしている。
ただ、ヒロトたちの言葉のセンスはとてもすぐれ(過ぎ)ているので、その毒が美しく見えてしまうのだろう
ブルーハーツを見ていると清志郎のプロテストは泥臭く青臭い。でもドブネズミが美しいと言った時に、ドブネズミの汚らしさは見失われるのだろう。そして、美しいといっているその本当の美しさも見失われてしまう。なぜなら、ドブネズミの美しさは汚らしさの中にあるから